笠原水道は1663年に完成しました。
完成しましたよ!めでたしめでたし、という話で普通は終わりです。
いつまで使われていたかという話、あまり知られておりません。ちなみに笠原水道は昭和7年、水戸市の近代水道の完成によって使命を終えました。
笠原水道というインフラ設備が出来ればそれを維持管理していかなくてはなりません。それはいつの時代でも一緒です。
水道の経費は受益者負担で、臨時の大修理は別途徴収となりますが、保管金を貸し付けて利を収め、水道の管理にあたる町役人は、町年寄、下町名主、町人から専任の水番を置いて水道の保全にあたりました。
現存する資料では完成して20年後1683年(天和3年)にはじめて修理の記録があり、そこから毎年のように費用と労力と必要としたようです。
1802~3年、享和の大修理が行われました。完成から100年以上経っているわけです。それまでの手入れが必ずしも良くできていたわけではなく、水道管に樹木の根がはいりこんで破損や漏水、そこから泥水の流入で水質悪化、水路をふさぐなどで、断水があったりしたようです。そのため、仕様替を含み、幹線で1707間、支線を含め9000間の水道修理を藤柄町の佐兵衛を中心に行いました。佐兵衛は、渡りの水道職人(水戸藩には技術者がいない)は威張って仕事しない、農村からの人夫は町が珍しくて徘徊してしまい仕事しないのが、過去の工事でわかっていたので、子々孫々に残る大事業であるので身元確かで実貞な者を集めて行ったとのことです。取換岩1707枚、根太工1708肩、杭17080本、置土17080肩という試算だったようです。
笠原水道の維持管理は補修との戦いであったようです。
明治の話はまたの機会に。