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今年の偕楽園の表門

今年は偕楽園に3回ほど朝方行きました。

朝方は偕楽園全体的に人が少ないのですが、
今年は例年に比べ多いように感じております。
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毎年この時期は何度も行っておりますが、
表門は、偕楽園のほかのところと比べひっそりしております。
.
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今年は様相が異なり、人が結構います。
これもブラタモリの水戸編が1月末に放送されたからだと思われます。

上の写真は人が途切れた一瞬で撮影です。

ただ表門から大工町方面の道を歩くと歩いている人にはあまり出くわさないので
偕楽園を東門から入ってぐるっと回って
表門に来るという形をとっているんでしょうね。
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今年来園した3回のうち2回はここでタクシーの乗降を目撃しております。
市内に宿泊したであろう観光客でしょうね。
表門から偕楽園へという人も増えたんでしょう。
今までそんな光景は目撃したことはないんですよね。

水戸のタクシーの運転手さん、
お客さんのおもてなしできているといいな~。


話は表門とは異なりますが、
観光客の中には、犬を連れて来る人みます。
偕楽園内は座敷犬といえども連れてくるのは違反行為です。
私の思い込みですが、これは県外からの観光客でしょう。

また、喫煙している人もたまに見かけます。
またまたこれも私の思い込みですか、こちらは水戸市を含む茨城県内の観光客でしょう。


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水戸市常磐町 写真は上から順に2017年2月、3月 2015年3月


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by ta-tanchi | 2017-03-05 23:01 | 公園 | Comments(0)

東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展

茨城県近代美術館で行われている
東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展 を見てまいりました。

とても素晴らしいものでした。
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唐招提寺の御影堂は、鑑真和上坐像(国宝)が奉安されており
東山魁夷画伯が描かれた、鑑真和上坐像厨子扉絵、ふすま絵、障壁画が収められています。

平成27年から平成大修理事業に着手したことで、拝観できない間を利用しての障壁画展です。
訪問時は平日でしたが混雑しておりましたので、
会期が迫ってくるとかなり混雑することが予想されます。
4月2日までです。

水戸で東山魁夷の作品といえば、京成百貨店の包装紙です。
東山魁夷の作品「樹映」をもとに、デザイン監修され京成百貨店のために製作し浜紬に染め上げたものです。
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美術館で包装紙と記念撮影してみました。
が、包装紙は青が上なんですよね・・・。

旧京成百貨店時代はこの包装紙について
どこかにこれが展示されていた記憶があるのですがうる覚えです。

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ちなみにもう終わってしまいましたが、京成百貨店9階で東山魁夷展が行われていて、
コチラに包装紙に関する展示がありました。
ただこれは、旧京成の建物で見たものではないようにも思いました。


水戸市千波町 2017年2月






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by ta-tanchi | 2017-02-27 01:12 | イベント | Comments(0)

善重寺の聖徳太子立像


聖徳太子立像といえば、水戸のひとであれば、
水戸郷土かるたによっておおよその人が知っているはずですね。

「善重寺 みずら姿の 太子像」
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ってやつです。今の小学生の間では
マツコ・デラックスとも呼ばれているようです(注)。

この聖徳太子像は、聖徳太子の命日である毎年2月22日、

1年のうち1日だけ、

そのうちの11時から12時までの1時間だけ、

善重寺の太子堂が御開帳になり、奉安されている木造聖徳太子立像を観ることができるのです。
激レアなわけで
なかなかそのタイミングで行くことは難しいのですが、
行ってまいりました。
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11時20分頃到着。

境内にはいると観るための列が出来ておりました。
暫く並んでおりますと、住職がやってきて準備をして
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太子堂の入口が開きました。
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ぞろぞろの並んでいる人が太子堂へ入っていきます。

なんとなく見て終わりだと思っておりましたが、
住職さんがお経を唱え、
そのあとに浄土真宗、太子信仰、聖徳太子立像などについて柔らかく聞き入るお話がありました。

徳川光圀が城里の阿波山(大山)にあった聖徳太子像を善重寺に寄進したようです。
16歳の姿で、玉眼崁入(ぎょくがんかんにゅう)、髪を美豆良(みずら)に結い、
袍衣(ほうえ)に袈裟(けさ)をかけ、
左手に柄香炉(えごうろ)をもち、その一指で衣の端をとり、右手に笏(しゃく)を持っております。
下市を向いて奉安されているのは、民を見守ってくれるようにとのことのようですよ。

また、太子のお顔は、像ですが眺める角度によっていろいろな表情を見せてくれます。
正面から立って眺めると凛々しさがあり、
真下から見上げると女性的な色気もある像です。

写真撮影はしないでくださいとのことですので、
どこかのサイトの立像を参考に下書きもなく筆ペンでちゃっちゃと描いてみたものを載せますね。
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この絵では伝わらないですね(笑)。



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入口正面に太子像はありますが、入口は屏風で仕切られ、
外からは見えないようになっております。
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(注)信仰の対象を揶揄するつもりはありません。
私たち小学生のころ、勝手にあれだこれだと絵札に名前を付けて親しみをもっていた、やっていましたよね。

水戸市酒門町 2017年2月22日




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by ta-tanchi | 2017-02-24 07:17 | 街秘境 | Comments(0)

水戸のバスの運転マナーの向上に期待します

この写真見て、特に何も感じないのであれば
感じ取ってほしいです。

歩行者の信号青。
バスの停止位置。
どうですか?
だからどうした?ですか?

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歩行者がいないからオッケーですか?
停止線よりもタイヤがどんだけ前に出てますか?
車長の半分くらいはみ出てますよね。
そして横断歩道に乗り上げていますよ。

見てましたが、バスが止まれなかったわけではありません。
ゆっくり走ってきてここで停車しました。
仮に止まれなかったとしたらそれはスピードの出し過ぎです。

残念ながら、これが水戸のバスの日常です。

たまたま乗ったバスでも
わかりにくいかもしれませんが、
郵便局前の交差点でラインオーバー
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水戸のバスって
黄色から赤に変わるタイミングでも
平気で交差点侵入してきますよね!!

これも日常です。
(赤でも侵入してくるバスいますけど)

交通マナー悪すぎです。

茨城県の交通マナー悪い悪いってよく言われますが、
公共機関がこれでは、
良くなるわけがありません。

水戸の街、茨城県を良くしよう!
良く見せようと思うのであれば、
こういうところから気を使っていかない限り、
良くならないですよね??

これが本当のおもてなしだと思うのですが…。

こういうところから正していかなければならないのでは?

皆さん、どう思いますか?

水戸市南町だけどどこでも 2014年1月、2016年3月撮影だけど年中

前にも同じこと書いています。。





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by ta-tanchi | 2017-02-22 06:57 | 道路・鉄道 | Comments(4)

笠原水道のその後 明治時代から終焉まで

時代は江戸から明治へ。
明治になても江戸と同様に笠原水道の維持管理は町人によって行われていたようです。

明治19年に笠原水道を管理する水利土功会というのが出来て、水戸の市制が明治22年に施行されて、水利土功会は市長管理下へ。水道岩樋修理、井戸新設願などの記録が残っていますが、水利土功会の活動全般はよくわかっていないようです。
また、江戸時代は道路を利用して井戸(笠原水道)が設置したのですが、これば道路利用の規則に反するようで、許可が必要だったが、出していなかったので、特別に道路に井戸据置を許可してほしいと県に届け出をし、さらに、井戸には堅牢な蓋を付け、井戸際は清潔にすること、往来の支障なきようするという届け出をだしました。そして備前堀を跨ぐ銅樋に柵、橋上に屋根を付けました。

またこのころは笠原水道では、盗水の被害もあり、記録が残っております。
毎年区間を決めて岩樋の泥土は木の根などを清掃修理して、水流の回復を下にもかかわらず、水量が減少し、飲用にも事欠くようになったので調べてみると、岩樋の上蓋をはがし、溝の中に石が入れられたり、岩土井に穴をあけ、明治になって開墾された新田に引水されていたのでした。見回りをしていてもこういうことが起きていたようです。

水質と水量の維持は、270年も過ぎた施設の保持は応急処置とはいかず、また笠原水道末端部では水量が不足することもしばしば起こるようになりました。水質も悪化していたし、防火には不十分だったようです。

水質の悪化として始末が悪いのが伝染病です。
下市では、夏になると赤痢は腸チフスが発生するのですが、明治22年6月には大流行しました。
竈神社の祭礼日に水道上流でチフス患者の汚物を洗ったことによって急速に広まったようです。

下市では死亡者や伝染病関係者の患者数の増加が他地域よりも多いことがわかり、住民たちから直ちに笠原水道の改良工事を願ったのでした。
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明治30年、水道に対して十分な機能を果たしていない水利土功会を解散させ、水道区会として組織の整備をし直しました。
明治42年から43年にかけて、水量を確保するための水源工事、水の浄化を図る沈殿池を兼ねた配水池工事、漏水が少ない導水管工事などの全面的な大規模な改修工事が行われました。
水源は第1、2、3(3だけ福沢)と増やし、導水管は大部分は常滑産土管で低地は鋳鉄管、配水池は白梅にコンクリート製で作られました。
これによって従来の岩樋の笠原水道の役割は終了し廃止処分となりましたが、水源以外の岩樋への湧水があり、防火用水として維持管理を続けていきます。

そして昭和7年、那珂川を水源都市水戸市街地全体を給水区域とする近代水道の完成によって、笠原水道は幕を閉じました。




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by ta-tanchi | 2017-02-09 08:27 | 川・水路 | Comments(2)

笠原水道が出来たら・・・

笠原水道は1663年に完成しました。

完成しましたよ!めでたしめでたし、という話で普通は終わりです。

いつまで使われていたかという話、あまり知られておりません。
ちなみに笠原水道は昭和7年、水戸市の近代水道の完成によって使命を終えました。

笠原水道というインフラ設備が出来ればそれを維持管理していかなくてはなりません。
それはいつの時代でも一緒です。

水道の経費は受益者負担で、臨時の大修理は別途徴収となりますが、保管金を貸し付けて利を収め、水道の管理にあたる町役人は、町年寄、下町名主、町人から専任の水番を置いて水道の保全にあたりました。

現存する資料では完成して20年後1683年(天和3年)にはじめて修理の記録があり、そこから毎年のように費用と労力と必要としたようです。

1802~3年、享和の大修理が行われました。
完成から100年以上経っているわけです。それまでの手入れが必ずしも良くできていたわけではなく、水道管に樹木の根がはいりこんで破損や漏水、そこから泥水の流入で水質悪化、水路をふさぐなどで、断水があったりしたようです。
そのため、仕様替を含み、幹線で1707間、支線を含め9000間の水道修理を藤柄町の佐兵衛を中心に行いました。
佐兵衛は、渡りの水道職人(水戸藩には技術者がいない)は威張って仕事しない、農村からの人夫は町が珍しくて徘徊してしまい仕事しないのが、過去の工事でわかっていたので、子々孫々に残る大事業であるので身元確かで実貞な者を集めて行ったとのことです。
取換岩1707枚、根太工1708肩、杭17080本、置土17080肩という試算だったようです。
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笠原水道の維持管理は補修との戦いであったようです。

明治の話はまたの機会に。





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by ta-tanchi | 2017-02-06 08:52 | 川・水路 | Comments(0)

素敵なステンドグラス

とある建物の入口で見かけました。
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水戸芸術館の塔と好文亭と千波湖、そしてビル群。
素敵です。

水戸市常盤町 2016年2月


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by ta-tanchi | 2017-02-01 07:49 | 街秘境 | Comments(0)

ブラタモリ 水戸 巡った場所 速報版



2017年1月28日、ブラタモリ水戸が放映されました。

「水戸黄門は、なぜ人気があるのか?」というテーマです。
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詳しい話は置いといて、とりあえず巡った場所で手持ちの写真や既出の記事を載せます。


水戸駅からは始まったブラタモリ。
徳川御三家の城跡をということで、
まずは、水戸三高横の坂を上がっていって、
水戸城の一の丸と二の丸の間の、水郡線の通っている堀を見ました。
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そして本城橋を渡って水戸一高へ。
天守閣もなく、石垣もない城跡を見るわけです。

水戸藩は江戸との往復、家臣を両方に抱えたため借金だらけだよという話。
そこにある薬医門を見ます。これは佐竹時代からのものを有効活用したという話。

借金だらけなのでどうしたのかというようなことで話は進みます。

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土塁もね。
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そして街中へ。
自然にあった谷を生かした紀州堀

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その堀のあった東側の縁?出会った道を進み、芸術館を見ながら
台地の北側の高尾坂へ。写真撮影済みなのですがちょっと見つかりません。
河岸段丘ね~みたいな話をして、

そして光圀が水戸の町人のために行った事業である、笠原水道を見に行きます。

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笠原水道の水を飲んでまろやかですね~みたいなやり取りのあと、
ここから笠原水道が続いていた湿地帯の木道を進みます。
湿地帯を進む水道はどうしたのかという話になります。
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唯一のその遺構が見える地点へ行きます。
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展示されている笠原水道の石をみて、
崖下から染み出る水も有効に活用するため
暗渠内の岩樋に入るような隙間があったことを確認します。
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そしてこの岩はどこから来たのかを巡ります。
常磐線沿いの崖地帯へ。
私はここでのロケをしているのを車から目撃しました。
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凝灰岩泥岩を使ったという話をしてました。
軽くて運びやすいかったという点ね。
笠原水道は270年間も機能したんですよ。


そして今度は光圀が没後140年後に出来た、弘道館へ。
弘道館は江戸時代の最大の藩校でした。

弘道館の門が開くのは年に4回なのは知りませんでしたが、
開いている写真を。
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大日本史の編纂を始めた話。
そして水戸藩士が全国を巡ったという話。
それが光圀が全国的に知られ人気になったというようなくだりを和気あいあいと・・・

尊攘のかけ塾は紹介されず、402巻大日本史の拓本、斉昭の弘道館記碑拓本を見たりします。
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梅の名所の偕楽園へ向かいます。
ここも教育と深く結びついた施設としての紹介です。

観光客が入る東門ではなく、表門から入るのです。
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そして竹林の景観を見て、梅しかイメージないです、
そしてこんなところがあるのかというような話をしながら進みます。
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好文亭の話は一つも出ず梅林のあたりへ行くと、
偕楽園は、教育の一環として
斉昭公の「一張一弛」という考えのもとに作られた寄って言うような話を。
弘道館が一張ならば偕楽園が一弛になるってことね。

陰と陽の話も。

そして、仙奕台付近へ。
偕楽園には庭園の池がないという話で、
自然の千波湖が眺められるのでその必要なんてないよねっていう話。

弘道館と偕楽園は、光圀の精神を受け継いでいるです。

で終わるんです。
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エンドロール最後に、仙奕台に将棋の駒を置いてあったのが印象的です。
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エンドロール後に
藁苞納豆を食べて終わりです。

抜けているところもありますし、話の筋もちょっと違うのでは?
というところもあるかもしれませんがそこはお許しを。

最後に、現代ていうと、水戸黄門ってタモリさんだよね。
人気もあって全国漫遊してますもん(笑)。




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by ta-tanchi | 2017-01-29 01:02 | イベント | Comments(0)

笠原水道 概要


笠原水道に関して、ウェブ上の公共系では残念ながら簡単すぎることしか載っていません。

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「水戸の歴史」という学校で配られている?教育委員会発行の読本の中には、簡単すぎず難しすぎず載っていますので、ここにほぼ丸写しですが、載せておきます。

笠原水道

千波湖の東側の低地を埋め立てて下町ができると、やがて町人が住み着くようになりました。
下町は、低地のため良い水には恵まれなかったので、吉田の2か所のため池から水を引いてました。
雨が降れば、水が濁って飲料水にはなりませんでした。

第二代藩主の徳川光圀は、問題解決のため町奉行の望月恒隆(もちづきつねたか)に相談し、数学や天文、地理に詳しい平賀保秀(ひらがやすひで)に地質を調べ計画を立てるように命じました。森林台地のふもとに、絶えずきれいな水が沢山出ている笠原を水源地に決めました。また、笠原から下町までの様子を調べ、笠原の湧水を千波湖の南岸沿い引くのが一番良いと望月恒隆に報告しました。

恒隆は、永田茂衛門(ながたもえもん)の子勘衛門(かんえもん)に任せて計画を実行しました。勘衛門は、湖の岸に提灯を立て、その提灯が水面に映る様子を見て(と書かれておりますが、どうなんでしょう?水面に映る様子ではなく、提灯同士の高さを見たのでは?)土地の高さを測りました。

水道は、笠原水源地から逆川に沿って千波湖に出て、岸に沿って吉田神社の崖下を通り、備前堀を越えて、本町に出て、細谷(城東)まで届いています。
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樋の材料には、岩や木、竹なども使っていますが、備前堀を超えるところだけは銅を使っています。岩は千波湖の対岸の備前町、天王町の崖下から切り出して船で運びました。岩を切り出した跡が洞穴のようになって、今も残っています。

岩樋のつなぎ目には粘土を使い、水路は地中に通すなど、当時、他藩では見られなかったような技術を用いました。町内には、水ダメを作り、旅人も自由に飲めるようにしました。この水道を作るために、554両というお金をかけ、延べ25014人の人々が働き、1年半という短い工期で完成しました。できた後は、水道を使う町人たちがお金を出し合って修理したり、当番を決めて捕手をしました。それからずっと長い間、生活のために多くの人々に利用されました。

今でも笠原水源地のそばに、「浴得泉」の碑が建っています。これは、この水道を作ったいわれを書いてあります。光圀の素晴らしい業績を後世まで伝えようと、8代藩主徳川斉脩(なりのぶ)の時代に建てられたものです。

写真は、水戸の水道史(第一巻)より掲載しました。







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by ta-tanchi | 2017-01-27 00:34 | 川・水路 | Comments(0)

笠原水道の岩樋(真正)

笠原水道水源地から逆川に沿って300mくらい行ったことろに、
笠原水道の発掘調査で出てきた、
凝灰岩泥岩の岩樋が展示されております。
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全体像はこんな感じで、風化しないように屋根がついております。
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上からは自分の目線では見えませんのでカメラを高く上げて撮影してみました。
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本物の岩樋の脇には、復元された岩樋がありますが、
前回出したものとは異なりますよね。
ただこれも異なるような気もします(笑)。
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平成16年に行われた発掘時の写真が案内板にあります。
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この発掘された岩樋の裏の水路に、
なんと、当時のままの岩樋が残っているのでした。
ビックリですね。
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ブログ記事作るにあたって、笠原水道で検索しても、
水戸市のオフィシャルなページの説明不足ぶりにはがっかりなのでした。

井戸ライフさんのページが詳しく書かれております。

水戸市千波町  2015年12月 2016年1月





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by ta-tanchi | 2017-01-25 00:35 | 川・水路 | Comments(0)