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土壇場と冥加淀と吉沼磔場を考察する

渋井町緑地と境橋(地獄橋)と吉沼磔場といわれている場所を
中心とした空中写真を用い考察していきます。

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昭和27年

新川の河川改修が行われる前の状態です。
河が蛇行して現在とは大きく違います。

中心辺りにあるのが境橋。
この橋が架かる前はどこに橋があったのかな?

河川改修で消えた冥加淀は、
橋の左側の木が茂っているあたりなのかな?

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昭和49年

河川改修が行われ、川も道も農地も大きく変化してしまい、
改修前の面影がほとんどなくなってしまいました。

境橋の左側は川の蛇行があったあたりが荒地のようになっております。

橋の右側も大きく変わり、旧河道は荒地と池になっております。
境橋北側の農地も区画整理がされ、道路もまっすぐになってます。

ということで、河川改修並びに区画整理にて、
「水府異聞」で出てくる吉沼磔場跡の荒地が完成するわけです。

そうなると、前出の吉沼磔場とされる場所って、
違和感ありません?

あったとすれば、そこじゃない・・・。

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河川改修前の新川跡は空き地の草叢と青いポンプ小屋の間あたりに続いていたようです。
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直近の平成24年では、ようやく渋井町緑地が出来てます。

昭和49年の写真と比べると、
緑地の石碑がある辺りは耕作地からの転換部分ですね。
緑地が土壇場だとしても、河川改修で埋めた土地もあるわけですから
土壇場は今の緑地からするとかなり小さいものだったのでしょう。

なので今の境橋のそばに土壇場は存在していたわけではなく、
橋からやや奥まった場所だった事が伺えます。
渋井町緑地のちょうどゲートボール場として整備されたあたりなのかな?

橋の位置は現在と違ったというのならば橋の位置も分かりません。
区画整理されてわからないけど、土壇場に近い橋の位置となると、
あさひ幼稚園の裏の昭和27年の空中写真でも写っている
小径の先にでも架かっていたのかな?

まあそんな考察。

そして最後に・・・
土壇場って首切りのための首を載せる盛土ところという意味を知っていると
「土壇場」って言葉にしたくないですよね。
いい言葉だと思わないわけです。
先日の高校野球決勝戦でもアナウンサーの口から
「土壇場で~」フレーズが幾度となく使われていて
残念というかなんというか悲しいというか・・・。
勝負事なら土俵際とか違う言葉使ってほしい・・・。










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by ta-tanchi | 2017-07-28 17:51 | 街秘境 | Comments(2)

吉沼磔場は本当にここなのか?

吉沼磔場は本当にここなのか?
と書いておきながら、
そもそも磔場があったのかは知りません。
「水府異聞」に書かれている言い伝えしか情報を得れるものがありません。

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水府異聞読んで、ああそうなんだ~、ここ磔場なのねって思っていて訪問したんですが、
行ってみるとなんだか違和感・・・・

わざわざ土壇場と呼ばれた「死者を埋める土地」があって、
磔場があったならば、わざわざ橋を渡ってそのような施設を作るのかな?


江戸時代、橋といっても街道筋でもない橋ですから粗末な橋でしょう?
川で対峙したものをわざわざ作るものなのでしょうか?

そもそも、江戸時代の橋の位置が違ったのであればここって違うんじゃないの?

渋井町緑地石碑に磔場のことは書かれておりませんので
磔場が本当にあったのかわかりません。
だから無かったのかもです。

この地のことを考えるとますます違和感が増していきます。


行ってみてわかったのですが、そもそも客土されているので
田んぼに利用できない土地でタダ放置されているだけと思われます。
そう考えるとこの土地、磔場ではない。

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河川改修された新川。ということでさらに次回に続きまず。


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水戸市渋井町 吉沼町 西大野 2015年9月 2016年6月




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by ta-tanchi | 2017-07-26 07:12 | 現存しないもの | Comments(0)

地獄橋と呼ばれていた 境橋

渋井町緑地そばには境橋があります。
手前側左が渋井町、見切れている道路の右側が西大野、
対岸が吉沼町となってます。まさしく町堺!
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またまた「水府異聞」からになりますが、
地獄橋と呼ばれた新川に架かる「境橋」とあります。

「徳川時代、罪人の死者、および無籍の死者を葬りし所にて、
葬り方が粗末なる故、時々露出し、犬の引きズリ出す等の事あり、
惨状甚だしく、見る者戦慄して、地獄橋と名づくに至る。
明治維新後は橋の位置も変え、
渋井、吉沼間に架せしを以って境橋と称するに至れり。」

と、昭和2年刊行の東茨城郡誌に記されているとのことです。

ってことは、この境橋のある場所じゃないってことですよね?
どこにあったんだろう地獄橋・・・。


江戸時代なんて橋の名前なんて俗称でしょうからね。

新川の下流には、こんな地獄橋ができるずっとずっと前から極楽橋
が存在していますが、
それに対する対義語的な意味合いはなかったでしょう。

一応この辺りを、地獄極楽ウォーキングのなかの、
渋井町緑地をはじめ、地獄のエリアとしてあります。

「水府異聞」によると、そして橋を渡ったところにある茂みが
磔場跡だそうです。

江戸時代の橋の位置が違ったのであればこれは当てはまることなのかな?

なんだか頭の中モヤモヤしてきました。

ってことでその磔上跡は本物か?につづく

水戸市渋井町 吉沼町 2016年6月







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by ta-tanchi | 2017-07-23 06:02 | 道路・鉄道 | Comments(0)

かつて「土壇場」と呼ばれていた渋井町緑地 


渋井町の末端部、新川沿いに整備された渋井町緑地です。
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碑があるのですが、その裏側に碑文があります。
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渋井町緑地碑

この地は 渋井町の田園地帯の一角にあり
自然環境が豊かに残されているところである
年々歳々自然環境が失われているなか
地域からこの自然環境を守り
育てる意識のもとに 公園としての要望があり
その熱意に応え水戸市が整備したものである

また この地は 幕末における藩内の争乱の際に
処刑された人々の遺骸が運ばれ 埋葬されたと言われている
そのため 近在の人々は この地を「土壇場」と呼び
新川の淀みを「冥加淀」と言い伝えている
新川改修工事により当時の淀みは残っていない
この緑地公園が地域の人々に愛着を持って
静かに憩える公園として末長く利用されることを願っている

平成四年三月吉日 水戸市建立

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碑文の前は広場です。

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その広場の上流側にはゲートボール場っぽい広場と
数本の植栽があり、結構広いです。

「水府異聞」という本(水戸市の図書館ならどこにでも置いてあります)
を読んでこの地のことを知り、
今回訪問前にも訪問してました。

碑文を読むと、
この公園となったところに死者を葬ったんだな~と
何とも言えない複雑な気持ちになります。

が、
赤沼~頭無~渋井町緑地(土壇場)を歩いてきた道、新川について後で考察すると
訪問後に碑に書かれている一文、
新川改修工事により当時の淀みは残っていない)が引っかかります。

どういうこと? 
 
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この写真は渋井町緑地を新川の対岸から見たものです。
木の茂みが2つ上の写真の植栽です。
河川改修されてまっすぐ流れている新川。

改修される前の新川ってまっすぐ流れていたの????
無駄に広い公園は、もともと土壇場といわれたすべての面積なの????

と疑問点が・・・。

なんだか公園の縁が変な形しているなあ~と思うところがあり撮影してました。




変にカーブしてますよね~

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このまっすぐじゃない隣地との境は、
河川改修前の川の流れの痕跡ではないのでしょうか?

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公園の末端に行くと不自然な三角形の使われていない土地があります。

つづく

水戸市渋井町 2016年6月




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by ta-tanchi | 2017-07-20 07:17 | 公園 | Comments(0)

このライトアップは誰のために???馬鹿げた歴史的景観


弘道館前の大手橋が大手門復元工事のため
車で渡れなくなって1か月ちょっとすぎました。
渡れないので通ることもなくなったのですが、
夜の「みとぶら」ってことで9時過ぎに行ってみました。

もともと車どおりが多いわけではなかったですが、
やはり道路が通れなくなって水戸二中から出てくる車しか通る車はありませんでした。
そして一高方面に歩いていくとびっくり!!

なんと二中の大シイの木が、水戸芸術館タワーや、低区配水塔のように
ライトアップされてました。

最初に飛び込んだのは青色でしたが・・・
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むちゃくちゃ気持ち悪い。
白壁というよりは光っている壁にこのライトアップ。
安コンデジ撮影なので手ぶれしてしまいます。

見た目がきれいじゃないライトアップほどむなしいものはありません。

時間30秒もたたないうちに忙しなく
緑だの、黄色だの、変わるのです。

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そして極め付けが赤。
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気色悪いったらありゃしません。


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こんな感じです。
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青も毒々しい・・・。

そもそもなぜここにライトアップ?
大手橋通れなくして人通りも夜はほぼないわけですし、
ここのライトアップを、いったい誰にアピールしたいのかと
小一時間・・・
お金をつぎ込んで、
この木を照らす意味がわからない。

これで歴史的景観を向上させているのか?
どうなんですか?

どう考えてもおかしくないですか?

今、水戸二中や隣在の学校に通っている人たちも何も言わないのか???



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絶対おかしいよ!

煌々と輝く壁と不気味なライトアップ。
お笑いものです。

これ観光資源なの?

観光資源化の費用の搾取?
シュールという言葉では片付けられないね。

当てはまる言葉が出ませんが、ブログの仕分けは脱力系としましたよ。

呆れて肩の力抜けるっつーの。

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昨年にも紹介した三高の白壁です。

拡大しましょう。

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光に集まる虫を捕獲すべく蜘蛛の巣だらけです。

蜘蛛の巣以外にもなんか虫いっぱいいました。
みんなが嫌いな茶羽で触角がくねくねしているやつも・・・

ああ、ここ(水戸)は本当に馬鹿げていて素敵なところですね!!!

水戸市三の丸 2017年7月






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by ta-tanchi | 2017-07-12 23:15 | 脱力系 | Comments(4)

鹿島神社(渋井町)と新川

頭無地蔵尊、那珂川旧河道を見た後は、渋井の微高地を進みます。
そして鹿島神社へ。

その鹿島神社は新川沿いにあります。

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鳥居がありますが、震災で被災して新しい鳥居が建てられました。
 元の鳥居は「井坂直幹」によって作られました。
井坂直幹といってピンとくる水戸の人はどれだけいるのでしょうか?
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壊れた鳥居がオブジェのように並び、そこに井坂直幹の説明が載っております。
このあたりの国道51位号線に近いところで生まれ、
秋田県能代市で木材産業に機械製材を採用し、
秋田の木材生産に多大なる富をもたらした人物です。

ちなみに、能代市には、井坂街区公園があり、
そこには、井坂直幹に関する資料を展示した井坂記念館があります。
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その鳥居の残骸の横には、
やわらかい石でできている手水なのかな?風化が進んでおります。
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この鹿島神社は、元は鹿島明神と羽黒明神があったのを、
光圀が今の場所に合祀したようです。
その名残で、羽黒神社の信仰として口や歯の病で詣でる人が多かったようです。
また鉄漿(おはぐろ)と羽黒つながりで婦人の信仰も厚く、
安産祈願も多かったとのことです。
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神社は、ちょっと土地の高いところに建てられているようで、
神社の裏は自然堤防な感じが色濃いです。
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備前堀は千波湖の水位を下げるために1610年に着工された放水路ですが、
機能的には十分ではなくしばしば氾濫しました。
そのためにさらに放水路として、1701年に新川は開削されました。
ただ開削といっても、水の流れが真直ぐじゃないので、
自然の流れを多く利用したと思われます。
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新川の上流側は備前堀からこの辺りまで河川を開削、新田開発したようにも感じます。
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この先は旧河道の低地を利用して新川は流れております。

水戸市渋井町 2016年6月




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by ta-tanchi | 2017-07-10 07:20 | 寺社 | Comments(0)

渋井町の地名考察

国道6号線バイパス、茨城交通の浜田営業所そばの浜田十字路の東側、
福徳弁財天の参道の東側は渋井町です。

今回はこの「渋井」の地名について考えていきます。

鎌倉期には渋江という名はあったようです。
この時は信田尻村(信太尻村?)内の地名だそうです。
佐竹時代には渋井村です。

江を示すのは入江のことですね。
海や湖が陸地に入り込んだ地形のことです。
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治水地形分類図2007~2014年版を見てみます。
濃い青の横線はが旧河道です。
薄い緑が氾濫原野、濃い緑が氾濫後背湿地、
黄色は微高地(自然堤防)です。

上の図のちょうど真ん中の黄色の部分から
その下の旧河道とその周りの自然堤防の付近が渋井町です。

那珂川の旧河道域が入江となって湿地になっていたと考えます。

字のとおり、渋井を渋った水が井戸から出ている場所という解釈も有りますが、
「え」がなまって「い」になったと考えるのも筋が通っていませんか?
地形を読み取って書いているだけですので本当のところはどうなんでしょう?

ちなみに吉沼町は
ちょうどUの字になっている旧河道と那珂川の間の地名を言います。

名前の通り、大干ばつでも枯れることのない沼があり、
ヨシ(アシ)が多いことによると伝えられているようです。

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那珂川の旧河道を見ると、那珂台地と東茨城台地の間は堆積平野です。
那珂川の氾濫の繰り返しで、微高地である自然堤防と、
後背湿地が入り乱れております。





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by ta-tanchi | 2017-07-08 07:01 | 旧町名 | Comments(0)

那珂川旧河道


福徳弁財天の裏側、頭無地蔵尊前、大洗鹿島線下の道を進んでいくと、
一段低地になります。
車に乗ってしまうと、
微妙な地形の変化にはにはかなり意識していないと気付かないですね。
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ここが、自然堤防と旧河道の境となります。
段差の下から上の写真の左側を撮影したものです。
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水田になる前は、
吉沼町の語源ともなったアシの生えた沼地だったのでしょう。
いつぐらいに水田になったのでしょうか?
新田開発は江戸時代なのでしょうけど、新川の整備の頃なのかな?


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少し先に行って新川沿いも自然堤防と旧河道の境がわかります。
民家があるのが微高地となります。

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渋井橋から旧河道の水の流れの名残の新川とその奥の自然堤防、
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対岸は水田の奥の微高地は畑作。低地と微高地の差ですね。
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旧河道の湾曲の強い部分は、
教科書通りというのでしょうか?自然堤防が高くなってます。


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反対側の東水戸駅付近は微高地です。


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昭和23年の空中写真です。
蛇行した河川跡がよくわかりますね。
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前出の治水地形分類図2007~2014年版と、
上記の空中写真を見比べると面白く感じませんか?

水戸市渋井町吉沼町西大野 2016年6月



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by ta-tanchi | 2017-07-04 08:19 | 川・水路 | Comments(0)

頭無と首無 の地名考察

頭無は、渋井町の字名です。
頭無は、「あたまなし」ではなく「かしらなし」です。
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1/5万 昭和22年5月30日発行「那珂湊」
です。
現在の地形図を見ても(国土地理院のページから見ることができます
頭無の字名は記載されております。

ちなみに下道や、極楽は名前がなくなってます。

「頭無」という地名がどのあたりかわかる人って
少ないのではないでしょうか?。

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治水地形分類図2007~2014年版を見てみます。
濃い青の横線はが旧河道です。
薄い緑が氾濫原野、濃い緑が氾濫後背湿地、
黄色は微高地(自然堤防)です。


頭無と首無を考察してみましょう。

「首なし」地蔵と本に記載されているのは 網代茂著、水府異聞
「くびなし」と読むわけでしょうか?
「しぶい」という本に小字名「首なし」と書かれておりますが
これも読みは「かしらなし」でしょうね。

頭無も首無も字の意味は同じでかつ、読みは「かしらなし」なんでしょう。
地名は漢字が先ではなく、呼び名に字を当てたので、
何通りかの字は違うとも読みが同じなのでしょう。

だから首でも頭でも、
そういう記載があってもおかしくないと思います。

例えば、酒門は坂戸だったりしたんですよね。見川も箕川だったし。

頭無とは、水源がはっきりしないところ、
水の流入がわからないところ、
という意味の言葉みたいですよ。

上流側が頭となるわけですから、上流がよくわからない場所、
水の流れのスタートが無い場所という意味なのでしょう。

那珂川の旧河道の上流側、
ゆるい斜面の付いた微高地(自然堤防)には水の出所がないけど
その周囲は水がたまるという地形を
治水地形分類図からも裏付け出来ている感はあります。

つづく



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by ta-tanchi | 2017-06-29 17:56 | 旧町名 | Comments(0)

頭無地蔵尊(首無地蔵尊)

最初に述べておきますが、
頭無地蔵尊、首無地蔵尊と
呼ばれている地蔵は
ここにある地蔵の頭首がないから
そう呼ばれているわけではありません。

網代茂著、水府異聞を読むと、
赤沼牢屋屋敷で斬首された遺体の慰霊に首なし地蔵
(地蔵に首がない理由の記述はないのですが)・・・
とあり、

赤沼の牢屋敷のから始まり、
頭無(首無)、地獄橋、までのことが書かれております。

そして、地獄橋の先にある極楽橋に至るまで、
何かストーリーがあって
つながりがあるのかなあ~と・・・。

赤沼の赤から連想される言葉は血の赤、
頭無から連想される言葉は斬首、
地獄橋は土壇場と呼ばれ処刑者を埋めた土地、
極楽橋の地獄との対義語

暗黒的ワードだらけでこれらに関連があるのか?
そんなことで、前出の福徳弁財天からこの地を通り、
最終的に新川の河口まで歩いてみました。
そんなわけで地獄極楽ウォーキングなんです。

そして歩いた後、考察してみましたが、
斬首と頭無は全く関係がありませんでした。
そりゃそうですよね。

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この首のない地蔵があるから地名が頭無(首無)になったわけじゃないです。

地名が存在したところに、たまたま頭首がなくなってしまった地蔵があった。
それだけのことです。

首がない罪人が通ったから頭無(首無)という地名になったというのは
無理がありすぎです。

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この地域の女人講がありました。今でもあるのかもしれません。
毎月19日夜になると念仏を唱えるという風習があったようです。
その念仏の中の一節に
女人泰産心安穏 心根具足意自在 寿命長達願成就
南無頭無延命子安地蔵尊
があります。

そういう信仰の対象であったわけですよ。

それが首が現在存在しないが故、斬首された体を想像するのは
ストーリーとしては面白いでしょうけど、
違うますよね?。

わざわざ地蔵さんの頭首を壊して奉るなんて
趣味悪いし、罰当たりじゃないでしょうか?

私は結構水戸の中をぶらぶらしていますが、
頭首のない地蔵はここだけではないです・・・。

ではなぜ頭首がないのか?


ここにある地蔵さんを見ましたが、石の性質でしょうか?
かなり風化が激しいですね。
砂岩でしょうか?

東日本大震災で被災した地蔵さんたち、
倒れて結構頭折れてました。

風化や、何か地震等で倒れたりして首がもげた。

また、これだけ首がない地蔵が集められていることから、
廃仏毀釈も考えられますね。

と考えるのが妥当だと思います。

と書きつつ、地名と全く関係なく首がないだけで
たまたま地名と相まって呼ばれていれば話は別ですけど・・・

次回は、頭無の地名を考えます。

水戸市渋井町 2016年6月



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by ta-tanchi | 2017-06-26 18:01 | 石仏、道標 | Comments(0)