みとぶら

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地獄橋の次は極楽橋

頭無~渋井町緑地(土壇場)、境橋(地獄橋)と新川(旧那珂川河川跡)を巡ってたどり着いところは極楽橋です。
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現在の県道に架かる極楽橋横に石碑があることは前回記載しました。

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県道は古くからこのルートになっており、
極楽橋は川に対して斜めに交差して直線的にわたっております。
石碑に「跡」とわざわざあるくらいですので、
今の橋とはおそらく違う場所にあったことでしょう。
昔の橋梁技術で行けば、川に対して斜めに橋を架けることなく、
川に対して直角に交差するように橋を架けたことでしょう。

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この道の旧橋はこの辺りで渡っていたと思われます。
橋の向こう側の道は、
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県道横の斜めに進む小径がきっと旧道でしょう。
小学校が出来る前は直線的に伸びていたと思われ、
かつ、小学校裏にある鹿島稲荷神社辺りで県道の旧道に交わっていたと勝手に推測しております。
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橋の手前側、2枚上の写真の反対側です。
この道路がおそらく県道の旧道だと思われます。これも勝手な推測です。

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極楽の地名は16世紀には名前があった事は前出ですが、
たまたま極楽橋と名付けたんでは?という、
私の見解です(笑)。
今でも、地名とはかけ離れた名前の橋ってありますよね・・・

縁起のいい名前つけただけ・・・。
橋に正式な名称なんて無くて、お坊さんが作ったとかで、
そう呼んでいたらその名前になったってところじゃないかと・・・
そしてその周辺の地名も、字名で極楽となった・・・。

説明になっているでしょうか?


ま、地域の言い伝えでは、
前も書きましたが、
極楽の地名の由来は、
昔,馬に乗っていた殿様の馬がz神社を前に急に進まなくなってしまい下馬し歩いてきたところ、
このあたりで馬に乗ることが出来、「あ~,極楽,極楽」と言ったとか…っていうことからのようです。

ここでツアーで行った地獄極楽ウォーキングは終わってしまいました。
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が、
俗説による極楽の由来の先へ
まだ続きます。


水戸市吉沼町 東大野 2016年6月7月









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# by ta-tanchi | 2017-08-02 07:50 | 旧町名 | Comments(2)

土壇場と冥加淀と吉沼磔場を考察する

渋井町緑地と境橋(地獄橋)と吉沼磔場といわれている場所を
中心とした空中写真を用い考察していきます。

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昭和27年

新川の河川改修が行われる前の状態です。
河が蛇行して現在とは大きく違います。

中心辺りにあるのが境橋。
この橋が架かる前はどこに橋があったのかな?

河川改修で消えた冥加淀は、
橋の左側の木が茂っているあたりなのかな?

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昭和49年

河川改修が行われ、川も道も農地も大きく変化してしまい、
改修前の面影がほとんどなくなってしまいました。

境橋の左側は川の蛇行があったあたりが荒地のようになっております。

橋の右側も大きく変わり、旧河道は荒地と池になっております。
境橋北側の農地も区画整理がされ、道路もまっすぐになってます。

ということで、河川改修並びに区画整理にて、
「水府異聞」で出てくる吉沼磔場跡の荒地が完成するわけです。

そうなると、前出の吉沼磔場とされる場所って、
違和感ありません?

あったとすれば、そこじゃない・・・。

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河川改修前の新川跡は空き地の草叢と青いポンプ小屋の間あたりに続いていたようです。
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直近の平成24年では、ようやく渋井町緑地が出来てます。

昭和49年の写真と比べると、
緑地の石碑がある辺りは耕作地からの転換部分ですね。
緑地が土壇場だとしても、河川改修で埋めた土地もあるわけですから
土壇場は今の緑地からするとかなり小さいものだったのでしょう。

なので今の境橋のそばに土壇場は存在していたわけではなく、
橋からやや奥まった場所だった事が伺えます。
渋井町緑地のちょうどゲートボール場として整備されたあたりなのかな?

橋の位置は現在と違ったというのならば橋の位置も分かりません。
区画整理されてわからないけど、土壇場に近い橋の位置となると、
あさひ幼稚園の裏の昭和27年の空中写真でも写っている
小径の先にでも架かっていたのかな?

まあそんな考察。

そして最後に・・・
土壇場って首切りのための首を載せる盛土ところという意味を知っていると
「土壇場」って言葉にしたくないですよね。
いい言葉だと思わないわけです。
先日の高校野球決勝戦でもアナウンサーの口から
「土壇場で~」フレーズが幾度となく使われていて
残念というかなんというか悲しいというか・・・。
勝負事なら土俵際とか違う言葉使ってほしい・・・。










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# by ta-tanchi | 2017-07-28 17:51 | 街秘境 | Comments(2)

吉沼磔場は本当にここなのか?

吉沼磔場は本当にここなのか?
と書いておきながら、
そもそも磔場があったのかは知りません。
「水府異聞」に書かれている言い伝えしか情報を得れるものがありません。

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水府異聞読んで、ああそうなんだ~、ここ磔場なのねって思っていて訪問したんですが、
行ってみるとなんだか違和感・・・・

わざわざ土壇場と呼ばれた「死者を埋める土地」があって、
磔場があったならば、わざわざ橋を渡ってそのような施設を作るのかな?


江戸時代、橋といっても街道筋でもない橋ですから粗末な橋でしょう?
川で対峙したものをわざわざ作るものなのでしょうか?

そもそも、江戸時代の橋の位置が違ったのであればここって違うんじゃないの?

渋井町緑地石碑に磔場のことは書かれておりませんので
磔場が本当にあったのかわかりません。
だから無かったのかもです。

この地のことを考えるとますます違和感が増していきます。


行ってみてわかったのですが、そもそも客土されているので
田んぼに利用できない土地でタダ放置されているだけと思われます。
そう考えるとこの土地、磔場ではない。

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河川改修された新川。ということでさらに次回に続きまず。


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水戸市渋井町 吉沼町 西大野 2015年9月 2016年6月




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# by ta-tanchi | 2017-07-26 07:12 | 現存しないもの | Comments(0)

地獄橋と呼ばれていた 境橋

渋井町緑地そばには境橋があります。
手前側左が渋井町、見切れている道路の右側が西大野、
対岸が吉沼町となってます。まさしく町堺!
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またまた「水府異聞」からになりますが、
地獄橋と呼ばれた新川に架かる「境橋」とあります。

「徳川時代、罪人の死者、および無籍の死者を葬りし所にて、
葬り方が粗末なる故、時々露出し、犬の引きズリ出す等の事あり、
惨状甚だしく、見る者戦慄して、地獄橋と名づくに至る。
明治維新後は橋の位置も変え、
渋井、吉沼間に架せしを以って境橋と称するに至れり。」

と、昭和2年刊行の東茨城郡誌に記されているとのことです。

ってことは、この境橋のある場所じゃないってことですよね?
どこにあったんだろう地獄橋・・・。


江戸時代なんて橋の名前なんて俗称でしょうからね。

新川の下流には、こんな地獄橋ができるずっとずっと前から極楽橋
が存在していますが、
それに対する対義語的な意味合いはなかったでしょう。

一応この辺りを、地獄極楽ウォーキングのなかの、
渋井町緑地をはじめ、地獄のエリアとしてあります。

「水府異聞」によると、そして橋を渡ったところにある茂みが
磔場跡だそうです。

江戸時代の橋の位置が違ったのであればこれは当てはまることなのかな?

なんだか頭の中モヤモヤしてきました。

ってことでその磔上跡は本物か?につづく

水戸市渋井町 吉沼町 2016年6月







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# by ta-tanchi | 2017-07-23 06:02 | 道路・鉄道 | Comments(0)

かつて「土壇場」と呼ばれていた渋井町緑地 


渋井町の末端部、新川沿いに整備された渋井町緑地です。
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碑があるのですが、その裏側に碑文があります。
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渋井町緑地碑

この地は 渋井町の田園地帯の一角にあり
自然環境が豊かに残されているところである
年々歳々自然環境が失われているなか
地域からこの自然環境を守り
育てる意識のもとに 公園としての要望があり
その熱意に応え水戸市が整備したものである

また この地は 幕末における藩内の争乱の際に
処刑された人々の遺骸が運ばれ 埋葬されたと言われている
そのため 近在の人々は この地を「土壇場」と呼び
新川の淀みを「冥加淀」と言い伝えている
新川改修工事により当時の淀みは残っていない
この緑地公園が地域の人々に愛着を持って
静かに憩える公園として末長く利用されることを願っている

平成四年三月吉日 水戸市建立

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碑文の前は広場です。

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その広場の上流側にはゲートボール場っぽい広場と
数本の植栽があり、結構広いです。

「水府異聞」という本(水戸市の図書館ならどこにでも置いてあります)
を読んでこの地のことを知り、
今回訪問前にも訪問してました。

碑文を読むと、
この公園となったところに死者を葬ったんだな~と
何とも言えない複雑な気持ちになります。

が、
赤沼~頭無~渋井町緑地(土壇場)を歩いてきた道、新川について後で考察すると
訪問後に碑に書かれている一文、
新川改修工事により当時の淀みは残っていない)が引っかかります。

どういうこと? 
 
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この写真は渋井町緑地を新川の対岸から見たものです。
木の茂みが2つ上の写真の植栽です。
河川改修されてまっすぐ流れている新川。

改修される前の新川ってまっすぐ流れていたの????
無駄に広い公園は、もともと土壇場といわれたすべての面積なの????

と疑問点が・・・。

なんだか公園の縁が変な形しているなあ~と思うところがあり撮影してました。




変にカーブしてますよね~

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このまっすぐじゃない隣地との境は、
河川改修前の川の流れの痕跡ではないのでしょうか?

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公園の末端に行くと不自然な三角形の使われていない土地があります。

つづく

水戸市渋井町 2016年6月




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# by ta-tanchi | 2017-07-20 07:17 | 公園 | Comments(0)

このライトアップは誰のために???馬鹿げた歴史的景観


弘道館前の大手橋が大手門復元工事のため
車で渡れなくなって1か月ちょっとすぎました。
渡れないので通ることもなくなったのですが、
夜の「みとぶら」ってことで9時過ぎに行ってみました。

もともと車どおりが多いわけではなかったですが、
やはり道路が通れなくなって水戸二中から出てくる車しか通る車はありませんでした。
そして一高方面に歩いていくとびっくり!!

なんと二中の大シイの木が、水戸芸術館タワーや、低区配水塔のように
ライトアップされてました。

最初に飛び込んだのは青色でしたが・・・
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むちゃくちゃ気持ち悪い。
白壁というよりは光っている壁にこのライトアップ。
安コンデジ撮影なので手ぶれしてしまいます。

見た目がきれいじゃないライトアップほどむなしいものはありません。

時間30秒もたたないうちに忙しなく
緑だの、黄色だの、変わるのです。

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そして極め付けが赤。
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気色悪いったらありゃしません。


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こんな感じです。
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青も毒々しい・・・。

そもそもなぜここにライトアップ?
大手橋通れなくして人通りも夜はほぼないわけですし、
ここのライトアップを、いったい誰にアピールしたいのかと
小一時間・・・
お金をつぎ込んで、
この木を照らす意味がわからない。

これで歴史的景観を向上させているのか?
どうなんですか?

どう考えてもおかしくないですか?

今、水戸二中や隣在の学校に通っている人たちも何も言わないのか???



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絶対おかしいよ!

煌々と輝く壁と不気味なライトアップ。
お笑いものです。

これ観光資源なの?

観光資源化の費用の搾取?
シュールという言葉では片付けられないね。

当てはまる言葉が出ませんが、ブログの仕分けは脱力系としましたよ。

呆れて肩の力抜けるっつーの。

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昨年にも紹介した三高の白壁です。

拡大しましょう。

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光に集まる虫を捕獲すべく蜘蛛の巣だらけです。

蜘蛛の巣以外にもなんか虫いっぱいいました。
みんなが嫌いな茶羽で触角がくねくねしているやつも・・・

ああ、ここ(水戸)は本当に馬鹿げていて素敵なところですね!!!

水戸市三の丸 2017年7月






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# by ta-tanchi | 2017-07-12 23:15 | 脱力系 | Comments(4)

鹿島神社(渋井町)と新川

頭無地蔵尊、那珂川旧河道を見た後は、渋井の微高地を進みます。
そして鹿島神社へ。

その鹿島神社は新川沿いにあります。

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鳥居がありますが、震災で被災して新しい鳥居が建てられました。
 元の鳥居は「井坂直幹」によって作られました。
井坂直幹といってピンとくる水戸の人はどれだけいるのでしょうか?
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壊れた鳥居がオブジェのように並び、そこに井坂直幹の説明が載っております。
このあたりの国道51位号線に近いところで生まれ、
秋田県能代市で木材産業に機械製材を採用し、
秋田の木材生産に多大なる富をもたらした人物です。

ちなみに、能代市には、井坂街区公園があり、
そこには、井坂直幹に関する資料を展示した井坂記念館があります。
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その鳥居の残骸の横には、
やわらかい石でできている手水なのかな?風化が進んでおります。
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この鹿島神社は、元は鹿島明神と羽黒明神があったのを、
光圀が今の場所に合祀したようです。
その名残で、羽黒神社の信仰として口や歯の病で詣でる人が多かったようです。
また鉄漿(おはぐろ)と羽黒つながりで婦人の信仰も厚く、
安産祈願も多かったとのことです。
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神社は、ちょっと土地の高いところに建てられているようで、
神社の裏は自然堤防な感じが色濃いです。
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備前堀は千波湖の水位を下げるために1610年に着工された放水路ですが、
機能的には十分ではなくしばしば氾濫しました。
そのためにさらに放水路として、1701年に新川は開削されました。
ただ開削といっても、水の流れが真直ぐじゃないので、
自然の流れを多く利用したと思われます。
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新川の上流側は備前堀からこの辺りまで河川を開削、新田開発したようにも感じます。
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この先は旧河道の低地を利用して新川は流れております。

水戸市渋井町 2016年6月




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# by ta-tanchi | 2017-07-10 07:20 | 寺社 | Comments(0)