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カテゴリ:川・水路( 29 )

旧6国、千波のサグを追う その2

前回の続きです。

マンションの進入路をくぐります。
そのあとも暗渠で続いているようですが、ちょっと追えませんので、
閉鎖した格安ガソリンスタンドの横の道を進みます。

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すると宅地の中に先ほどの水路跡、まっすぐな暗渠道路にぶつかります。
このあたりは、旧6号より下ってます。

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さらに下っていきますが、水路は道路の下にあるようです。
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緑岡中学校の横の道路の下に水路が眠っているようです。
ここは勾配があります。

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坂を下っていきます。
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最近道路が整備されたので、水路の痕跡がわかりませんが、
2011年のストリートビューでは左側の歩道部分が暗渠となってました。

突き当りの集合住宅のところに水路跡が残ります。
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駐車場の右側に続きます。
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駐車場の突き当りは施錠した門がありますがその下が暗渠。
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暗渠の先は、桜川に続く水門です。
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ゴール。水路の名前は判りません。

水戸市見川町 2016年5月、2017年2月





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by ta-tanchi | 2017-09-08 07:22 | 川・水路 | Comments(0)

旧6国、千波のサグを追う その1

旧6号線、県道50号線。
千波町のマツダから日産プリンスの間にはサグがあります。
サグとは下り坂から上り坂にさしかかる凹部のことです。
緩い下り坂でクリーニング店になっているあたりが底です。

車で走っていると、渋滞ポイントだな~ぐらいで、
勾配を意識しないと感じない場所ですね。
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マツダ横の交差点から緩い下り坂。

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反対側日産プリンス側からみたところ。

写真でも勾配があるのがわかりにくいですよね。

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クリーニング屋と、今はやっていない?定食屋さんとの間がサグです。
手前のガードレール見てもらうと下って上っている感じわかりますよね?

そこに何があるかというと、水路の跡である暗渠があります。
水の流れによってできた地形だから低くなっているってポイントです。
サグあれば水の流れあり!!

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クリーニング屋さんの横が上流方向となります。
進んでみます。

話変わりますが、このクリーニング屋さんになる前は
ここにヒュンダイのディーラーがありましたね。

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クリーニング屋さんの裏に水路発見が続きます。
突き当たって曲がって

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駐車場と建物の間を進んでいるようです。
そのあとはどこに行くかはちょっとわかりません。


今度は旧6号を境に下流側を見ていきます。
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駐車場と民家の間を縫って水路が続きます。
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マンションの横から見るとこんな感じです。
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マンションへの取り付け道路下にもぐってしまいます。
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続く

水戸市千波町 2016年5月

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by ta-tanchi | 2017-09-05 07:50 | 川・水路 | Comments(0)

新川河口

極楽橋から新川を河口方向に進みます。

水神さんを過ぎて、個人宅の船着き場でしょうか?
桟橋に半分水没した船が係留されておりますが、
なんだかとっても良い雰囲気です。
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そして那珂川の堤防と水門、そして船溜。
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船溜まりの雰囲気もこれまた素敵です。
水戸にこんな場所があったのか!!というような風景が見られます。

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秋は鮭を採っているのは知っておりますが、
他の季節は何か採っているのでしょうか?

那珂川の河口から少し入っている場所ですが
この辺からも鮭は献上されたのでしょうか?
気になるところです。

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新川と那珂川の間の水門は、常時開いているようです。
船もこの隙間を通っていくのでしょうね。
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水戸市吉沼町 2016年6月






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by ta-tanchi | 2017-08-08 07:22 | 川・水路 | Comments(0)

那珂川旧河道


福徳弁財天の裏側、頭無地蔵尊前、大洗鹿島線下の道を進んでいくと、
一段低地になります。
車に乗ってしまうと、
微妙な地形の変化にはにはかなり意識していないと気付かないですね。
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ここが、自然堤防と旧河道の境となります。
段差の下から上の写真の左側を撮影したものです。
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水田になる前は、
吉沼町の語源ともなったアシの生えた沼地だったのでしょう。
いつぐらいに水田になったのでしょうか?
新田開発は江戸時代なのでしょうけど、新川の整備の頃なのかな?


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少し先に行って新川沿いも自然堤防と旧河道の境がわかります。
民家があるのが微高地となります。

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渋井橋から旧河道の水の流れの名残の新川とその奥の自然堤防、
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対岸は水田の奥の微高地は畑作。低地と微高地の差ですね。
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旧河道の湾曲の強い部分は、
教科書通りというのでしょうか?自然堤防が高くなってます。


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反対側の東水戸駅付近は微高地です。


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昭和23年の空中写真です。
蛇行した河川跡がよくわかりますね。
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前出の治水地形分類図2007~2014年版と、
上記の空中写真を見比べると面白く感じませんか?

水戸市渋井町吉沼町西大野 2016年6月



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by ta-tanchi | 2017-07-04 08:19 | 川・水路 | Comments(0)

赤沼牢屋敷付近の河川跡 (十軒町樋菅)

桜川に面する十軒町樋菅と書かれた水門。

ここと対面の樋菅の水門から続く樋菅は、かつての桜川の流れです。
現在はそこに直角に交わっている形で河川改修が行われたのです。
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水門の後ろの地面を見ると、駐車している車もあったりするので、
ハッキリとはわかりにくいかもしれませんが、
河川を埋めて一部が暗渠として残った旧桜川(馬場川)の痕跡が判ります。

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土手(堤防)の上に樋菅の水門、そしてそこから延びるコンクリートの暗渠。舗装路を横断します。

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道路の先はコンクリートではなく土の下に暗渠が眠っているのでしょう。
この先にあるものは…

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赤沼牢屋敷跡の由来の記です。

その後ろに伸びる空間は、
意識しないとわかりませんね。
赤沼牢屋敷横の馬場川の痕跡なんです。

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川の流れはここで変わり、この道路がその跡のようです。

続く

水戸市東台 2016年12月




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by ta-tanchi | 2017-06-05 07:53 | 川・水路 | Comments(0)

夜の備前堀

下市では普通の風景かもしれませんが、
私的に、
備前堀に夜行くと、
とても水戸っぽくない!

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安コンデジでの撮影、写真よかずっとずっと素敵なんです。

これを活かさないなんて・・・
なんだかもったいないなあって感じです。

昼間もいい感じですよね
ここを借景にしたテラス席が素敵なレストランとか
気軽な軽食が食べれるところがあるといいのになあ~。

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水戸市本町 季節が全く違うときに公開です・・・2016年6月

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by ta-tanchi | 2017-02-14 23:55 | 川・水路 | Comments(0)

笠原水道のその後 明治時代から終焉まで

時代は江戸から明治へ。
明治になても江戸と同様に笠原水道の維持管理は町人によって行われていたようです。

明治19年に笠原水道を管理する水利土功会というのが出来て、水戸の市制が明治22年に施行されて、水利土功会は市長管理下へ。水道岩樋修理、井戸新設願などの記録が残っていますが、水利土功会の活動全般はよくわかっていないようです。
また、江戸時代は道路を利用して井戸(笠原水道)が設置したのですが、これば道路利用の規則に反するようで、許可が必要だったが、出していなかったので、特別に道路に井戸据置を許可してほしいと県に届け出をし、さらに、井戸には堅牢な蓋を付け、井戸際は清潔にすること、往来の支障なきようするという届け出をだしました。そして備前堀を跨ぐ銅樋に柵、橋上に屋根を付けました。

またこのころは笠原水道では、盗水の被害もあり、記録が残っております。
毎年区間を決めて岩樋の泥土は木の根などを清掃修理して、水流の回復を下にもかかわらず、水量が減少し、飲用にも事欠くようになったので調べてみると、岩樋の上蓋をはがし、溝の中に石が入れられたり、岩土井に穴をあけ、明治になって開墾された新田に引水されていたのでした。見回りをしていてもこういうことが起きていたようです。

水質と水量の維持は、270年も過ぎた施設の保持は応急処置とはいかず、また笠原水道末端部では水量が不足することもしばしば起こるようになりました。水質も悪化していたし、防火には不十分だったようです。

水質の悪化として始末が悪いのが伝染病です。
下市では、夏になると赤痢は腸チフスが発生するのですが、明治22年6月には大流行しました。
竈神社の祭礼日に水道上流でチフス患者の汚物を洗ったことによって急速に広まったようです。

下市では死亡者や伝染病関係者の患者数の増加が他地域よりも多いことがわかり、住民たちから直ちに笠原水道の改良工事を願ったのでした。
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明治30年、水道に対して十分な機能を果たしていない水利土功会を解散させ、水道区会として組織の整備をし直しました。
明治42年から43年にかけて、水量を確保するための水源工事、水の浄化を図る沈殿池を兼ねた配水池工事、漏水が少ない導水管工事などの全面的な大規模な改修工事が行われました。
水源は第1、2、3(3だけ福沢)と増やし、導水管は大部分は常滑産土管で低地は鋳鉄管、配水池は白梅にコンクリート製で作られました。
これによって従来の岩樋の笠原水道の役割は終了し廃止処分となりましたが、水源以外の岩樋への湧水があり、防火用水として維持管理を続けていきます。

そして昭和7年、那珂川を水源都市水戸市街地全体を給水区域とする近代水道の完成によって、笠原水道は幕を閉じました。




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by ta-tanchi | 2017-02-09 08:27 | 川・水路 | Comments(2)

笠原水道が出来たら・・・

笠原水道は1663年に完成しました。

完成しましたよ!めでたしめでたし、という話で普通は終わりです。

いつまで使われていたかという話、あまり知られておりません。
ちなみに笠原水道は昭和7年、水戸市の近代水道の完成によって使命を終えました。

笠原水道というインフラ設備が出来ればそれを維持管理していかなくてはなりません。
それはいつの時代でも一緒です。

水道の経費は受益者負担で、臨時の大修理は別途徴収となりますが、保管金を貸し付けて利を収め、水道の管理にあたる町役人は、町年寄、下町名主、町人から専任の水番を置いて水道の保全にあたりました。

現存する資料では完成して20年後1683年(天和3年)にはじめて修理の記録があり、そこから毎年のように費用と労力と必要としたようです。

1802~3年、享和の大修理が行われました。
完成から100年以上経っているわけです。それまでの手入れが必ずしも良くできていたわけではなく、水道管に樹木の根がはいりこんで破損や漏水、そこから泥水の流入で水質悪化、水路をふさぐなどで、断水があったりしたようです。
そのため、仕様替を含み、幹線で1707間、支線を含め9000間の水道修理を藤柄町の佐兵衛を中心に行いました。
佐兵衛は、渡りの水道職人(水戸藩には技術者がいない)は威張って仕事しない、農村からの人夫は町が珍しくて徘徊してしまい仕事しないのが、過去の工事でわかっていたので、子々孫々に残る大事業であるので身元確かで実貞な者を集めて行ったとのことです。
取換岩1707枚、根太工1708肩、杭17080本、置土17080肩という試算だったようです。
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笠原水道の維持管理は補修との戦いであったようです。

明治の話はまたの機会に。





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by ta-tanchi | 2017-02-06 08:52 | 川・水路 | Comments(0)

笠原水道 概要


笠原水道に関して、ウェブ上の公共系では残念ながら簡単すぎることしか載っていません。

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「水戸の歴史」という学校で配られている?教育委員会発行の読本の中には、簡単すぎず難しすぎず載っていますので、ここにほぼ丸写しですが、載せておきます。

笠原水道

千波湖の東側の低地を埋め立てて下町ができると、やがて町人が住み着くようになりました。
下町は、低地のため良い水には恵まれなかったので、吉田の2か所のため池から水を引いてました。
雨が降れば、水が濁って飲料水にはなりませんでした。

第二代藩主の徳川光圀は、問題解決のため町奉行の望月恒隆(もちづきつねたか)に相談し、数学や天文、地理に詳しい平賀保秀(ひらがやすひで)に地質を調べ計画を立てるように命じました。森林台地のふもとに、絶えずきれいな水が沢山出ている笠原を水源地に決めました。また、笠原から下町までの様子を調べ、笠原の湧水を千波湖の南岸沿い引くのが一番良いと望月恒隆に報告しました。

恒隆は、永田茂衛門(ながたもえもん)の子勘衛門(かんえもん)に任せて計画を実行しました。勘衛門は、湖の岸に提灯を立て、その提灯が水面に映る様子を見て(と書かれておりますが、どうなんでしょう?水面に映る様子ではなく、提灯同士の高さを見たのでは?)土地の高さを測りました。

水道は、笠原水源地から逆川に沿って千波湖に出て、岸に沿って吉田神社の崖下を通り、備前堀を越えて、本町に出て、細谷(城東)まで届いています。
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樋の材料には、岩や木、竹なども使っていますが、備前堀を超えるところだけは銅を使っています。岩は千波湖の対岸の備前町、天王町の崖下から切り出して船で運びました。岩を切り出した跡が洞穴のようになって、今も残っています。

岩樋のつなぎ目には粘土を使い、水路は地中に通すなど、当時、他藩では見られなかったような技術を用いました。町内には、水ダメを作り、旅人も自由に飲めるようにしました。この水道を作るために、554両というお金をかけ、延べ25014人の人々が働き、1年半という短い工期で完成しました。できた後は、水道を使う町人たちがお金を出し合って修理したり、当番を決めて捕手をしました。それからずっと長い間、生活のために多くの人々に利用されました。

今でも笠原水源地のそばに、「浴得泉」の碑が建っています。これは、この水道を作ったいわれを書いてあります。光圀の素晴らしい業績を後世まで伝えようと、8代藩主徳川斉脩(なりのぶ)の時代に建てられたものです。

写真は、水戸の水道史(第一巻)より掲載しました。







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by ta-tanchi | 2017-01-27 00:34 | 川・水路 | Comments(0)

笠原水道の岩樋(真正)

笠原水道水源地から逆川に沿って300mくらい行ったことろに、
笠原水道の発掘調査で出てきた、
凝灰岩泥岩の岩樋が展示されております。
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全体像はこんな感じで、風化しないように屋根がついております。
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上からは自分の目線では見えませんのでカメラを高く上げて撮影してみました。
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本物の岩樋の脇には、復元された岩樋がありますが、
前回出したものとは異なりますよね。
ただこれも異なるような気もします(笑)。
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平成16年に行われた発掘時の写真が案内板にあります。
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この発掘された岩樋の裏の水路に、
なんと、当時のままの岩樋が残っているのでした。
ビックリですね。
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ブログ記事作るにあたって、笠原水道で検索しても、
水戸市のオフィシャルなページの説明不足ぶりにはがっかりなのでした。

井戸ライフさんのページが詳しく書かれております。

水戸市千波町  2015年12月 2016年1月





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by ta-tanchi | 2017-01-25 00:35 | 川・水路 | Comments(0)