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笠原水道 概要


笠原水道に関して、ウェブ上の公共系では残念ながら簡単すぎることしか載っていません。

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「水戸の歴史」という学校で配られている?教育委員会発行の読本の中には、簡単すぎず難しすぎず載っていますので、ここにほぼ丸写しですが、載せておきます。

笠原水道

千波湖の東側の低地を埋め立てて下町ができると、やがて町人が住み着くようになりました。
下町は、低地のため良い水には恵まれなかったので、吉田の2か所のため池から水を引いてました。
雨が降れば、水が濁って飲料水にはなりませんでした。

第二代藩主の徳川光圀は、問題解決のため町奉行の望月恒隆(もちづきつねたか)に相談し、数学や天文、地理に詳しい平賀保秀(ひらがやすひで)に地質を調べ計画を立てるように命じました。森林台地のふもとに、絶えずきれいな水が沢山出ている笠原を水源地に決めました。また、笠原から下町までの様子を調べ、笠原の湧水を千波湖の南岸沿い引くのが一番良いと望月恒隆に報告しました。

恒隆は、永田茂衛門(ながたもえもん)の子勘衛門(かんえもん)に任せて計画を実行しました。勘衛門は、湖の岸に提灯を立て、その提灯が水面に映る様子を見て(と書かれておりますが、どうなんでしょう?水面に映る様子ではなく、提灯同士の高さを見たのでは?)土地の高さを測りました。

水道は、笠原水源地から逆川に沿って千波湖に出て、岸に沿って吉田神社の崖下を通り、備前堀を越えて、本町に出て、細谷(城東)まで届いています。
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樋の材料には、岩や木、竹なども使っていますが、備前堀を超えるところだけは銅を使っています。岩は千波湖の対岸の備前町、天王町の崖下から切り出して船で運びました。岩を切り出した跡が洞穴のようになって、今も残っています。

岩樋のつなぎ目には粘土を使い、水路は地中に通すなど、当時、他藩では見られなかったような技術を用いました。町内には、水ダメを作り、旅人も自由に飲めるようにしました。この水道を作るために、554両というお金をかけ、延べ25014人の人々が働き、1年半という短い工期で完成しました。できた後は、水道を使う町人たちがお金を出し合って修理したり、当番を決めて捕手をしました。それからずっと長い間、生活のために多くの人々に利用されました。

今でも笠原水源地のそばに、「浴得泉」の碑が建っています。これは、この水道を作ったいわれを書いてあります。光圀の素晴らしい業績を後世まで伝えようと、8代藩主徳川斉脩(なりのぶ)の時代に建てられたものです。

写真は、水戸の水道史(第一巻)より掲載しました。







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by ta-tanchi | 2017-01-27 00:34 | 川・水路 | Comments(0)